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音楽と言葉

朝日新聞には月に一度、作家の大江健三郎氏がコラムを寄せています。話題は、長男である作曲家の大江光氏のことで、昨日は彼の音楽と言葉との関わりについて、大変興味深い考察が書かれてありました。
ご存知のとおり、光氏には知的障害があります。コラムは、要約すると次のような内容でした。

障害のため、言葉を自由に操れない光氏は、以前は言葉を介さずに、直接、彼の心と音楽を結びつけて作曲していたように思われる。最近7年間のあいだ、作曲活動道を休止していた光氏は、その間、家族による言葉の訓練や、専門家による音楽理論のレッスンを受け、再び作曲活動を開始した。その新しい音楽には、感じたことを言葉を介して理解したうえでの創意工夫がみられる。そして、それが彼の音楽に「知的な明るさ(悲しみも)」を与えているのではないか。

健三郎氏のコラムは、やがて訪れる父親の死を、彼は言葉で理解し、それを「知的な明るさ」をもって音楽にしていくだろう、と結ばれているのですが、私が興味をひかれたのは、むしろ「言葉の介在しない音楽」の存在でした。
私にとって、また多くの音楽家にとっても、音楽は言葉なしには存在しないものです。5歳で入った音楽教室では、すでに言葉によって「ドレミ」を覚えました。その後、専門的に勉強すればするほど、言葉の比重は高まっていくと思います。音楽表現を考えるうえでも言葉は重要です。そして、それはもちろん「必要」なことです。私自身はさらに、暗譜をするにも、指の形や楽譜の音符を図形で覚えるというより、まるで文を暗誦するように言葉で曲を覚えるというのが常です。(この暗譜方法には問題があるのですが、それは後日改めて書こうと思います。)というわけで、これまで音楽というのは、そのように言葉の上に成り立っているものだと考えていました。(もちろん、演奏というのは、言葉を超えた表現であることには変わりないのですが。)

言葉の介在しない音楽とは、どのように純粋なものなのか。
光氏の初期のCDをぜひ聴いてみようと思っています。
by yuko_kodama | 2005-05-11 15:39 | メディア(番組・記事)紹介
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